先日、ヒントになりそうな映画を観ました。「カンタ! ティモール」という東ティモールの独立運動の映画です。インドネシア軍に攻め込まれ、住民の3分の1が殺された。けれど独立を手放さず、そのために憎しみではなく愛で対抗する。
独立のためにゲリラという立場で対抗はしますが、戦かわないんです。インドネシア軍隊は武力で抑圧してくる。罪のない住民を殺しまくる。でも東ティモールのゲリラ隊は、捕らえた捕虜に自分たちの考えや思想を伝えて無事に返す。
そのうちにインドネシア軍の兵士たちは「ティモールの人たちと戦いたくない」といって軍の命令をきかなくなっていく。そうして独立が守られたという実話を描いています。
監督は日本人女性。彼女が東ティモールで偶然出会った歌に惹かれ、聖なる地を訪ねて生活をする。そこで知った事実を描いています。
その地には言葉があまりありません。女性ならすべて「お母さん」。大人は「お父さん」と「お母さん」しかない。融合していけば、どんどん言葉がシンプルになってくる。自分と相手が一体なら、多くを伝える言葉は必要ないからです。
「私」という言葉はなく「私たち」。「ありがとう」もない。「ありがとう」をいうのは、相手対私だから。融合していれば、あなたのためは私のため。大事な人を殺されたとしても「恨まない」なんていう考えもない。「恨む」という概念がないから「恨まない」なんてことを意識しないんです。それは悲しみであって恨みではない。神様の世界は相対ではなく絶対だと話しました。それに近い社会なんです。
――「カンタ! ティモール」観てみます。現実問題として、今からそんな社会には戻れないとしても参考になることがたくさんありますね。
東ティモールのような社会があるべき姿だったとしても、そうでなければダメだということではありません。分ける世界。分けるという経験も貴重なものです。
そして、それを融合させる力が愛。愛というと、なにか甘い観念的なイメージだけが浮かびますが、統合していくエネルギーです。
分離していく力は探求したいというエネルギー。今の場所から出て他のものを知りたい。それ自体は悪ではない。
いいも悪いもなく、別々のものを統合させる。それが愛。善と悪ではありません。自然と共に暮らしている人たちにとっては当たり前のこと。だから分離させる言葉が存在しないんです。言葉で説明しなくてはいけなくなって、言葉を使うことでどんどん意識が分かれていってしまう。